STORY

「すべてが別世界だった」
ライト館で勤務したお二人とVRを巡る #03

INTERVIEW2018.10.02

―ライト館には、日本で最初のアーケードが作られたかと思いますが、「帝国ホテルアーケード」はどんな場所だったのですか?

開業当時の帝国ホテルアーケードと建物西側のアーケード入口

石原:正面玄関から入って左に向い、階段を下りた地下がアーケードになっていました。郵便局もありましたが、一番多かったのはパール(真珠)のお店ですね。

小池:着物や法被のような派手な和服を扱うお店もありました。私達が着るような和服ではなく、派手で華やかな柄の着物が店頭に飾ってありました。

石原:扇子も舞扇のような派手なものが置いてありました。

小池:薬局も入っていました。御客様のお使いでよく行っていました。それから御客様用の美容室もありましたね。あと、夏になると床にゴザが敷かれていたのを覚えています。大丈夫かなと思ったんですが、ヒールを履いても意外と普通に歩けました。

―客室の様子について御伺いさせてください。当時の客室の写真を拝見すると、各部屋のデザインがそれぞれ異なっているように見えるのですが、全室異なる意匠だったのですか?

小池:通路の中央にあった一般のお部屋は同じようなデザインでしたが、スイートルームはそれぞれ異なるデザインで作られていました。二階と三階の突き当りがスイートルームで、大統領や著名人の方がお泊りになっていました。終戦時に重光さんがお泊りになったのも二階のスイートでした。(編集注:日本の降伏文書に調印した当時の外相、重光葵氏は戦争末期から帝国ホテルに滞在していた)

スイートルームの一室(写真提供:帝国ホテル)

石原:この写真も屏風が置いてあるからスイートですね。

小池:椅子にレースがかけられているのもスイートルームの特徴です。化粧台も一般のお部屋よりも良いものが置かれていました。

―家具は結構大きいものが置かれていますね?

小池:テーブルも椅子も、みんな高いんです。全て外国の方に合わせて作っていますので。クローゼットも昔はドレスをお召しの御客様が多かったので高かったですね。それからドアの鍵穴も、浴室のシャワーヘッドも高い位置にありました。

石原:だいたい180cm程度の身長を基準に作られていましたかね。

小池:日本の方は、ワンフロアに数人泊まられていた程度、あとはほとんどが外国の方でした。

―客室は何名くらいの従業員で担当していたのですか?

小池:私は南館の担当でしたが、各フロアに8名ずつ合計24名おりました。基本的に1フロアを一人でお掃除しました。昔は掃除機やホウキ、それに袋が付いた重たい掃除機を使っていました。本当に大変だったのが、ペルシャ絨毯ですね。一通り綺麗にしてから、房をクシでとかさないといけなかったのですが、一人で仕上げるには結構時間がかかりました。お風呂は今と違ってタイルでできていました。バスタブが深かったので、掃除の時は中に入って、たわしとヘチマを使ってクレンザーで磨いていました。あとは洗面台が今よりも狭く、御客様の私物が色々と置いてありましたから、すごく神経を使いました。

―演芸場(オーディトゥリウム)には行かれた事はありましたか?

小池:入社式の会場が演芸場でした。当時社長だった犬丸一郎さんから色んなお話を伺いました。入社式はずっとここでやっていたようですね。

石原:私も入社式は演芸場でした。オペラハウスのような素敵な場所でした。

小池:ただ私は客室担当でしたので、入社式以来はこういう所へ行く機会はありませんでした。

―最上階の饗宴場(ピーコックルーム)に入る機会はありましたか?

饗宴場の様子(写真提供:帝国ホテル)

石原:無かったですね。宴会担当でないと、従業員で中に入る事はできませんでした。梁が印象的な空間だという知識はありましたが。

小池:OBで元気な方に声をかければ、饗宴場の事に詳しい方がいるんじゃないかしら(笑)。

―社史でも書かれていますが、当時の宴会係はチップをいただける職場だったそうですね?

小池:チップは客室担当の私もいただきました(笑)。一旦、全部先輩に渡して月に一回わけていただいていました。

―ただ、従業員によって収入が違うのはいけないということで、犬丸社長はチップ制を廃止し、サービス料という制度を作った。そしてその制度は世界中に広まったそうですね。

小池:1940年にチップ制が無くなりましたが、その後しばらくは、御客様からチップを差し出されると、「No, thank you.」と言いながら思わず手が出てしまっていました(笑)。皆さんさり気なく上手に差し出すものですから…。勿論いただいてはいけませんけどね。

―饗宴場や演芸場をはじめ、御客様が目にする空間は非常に華やかだった印象ですが、従業員の皆さんがお使いになる空間は如何でしたか?

小池:とにかく、ロッカーに行く時も従業員用の美容室に行く時も、なんでこんなに狭い通路を歩かないといけないんだろうと感じていたのを記憶しています。仕事柄、地下の施設に行かなければならなかったのですが、真ん中にあった地下の通路は、天井の配線がむき出しで床が斜めになっていて、水のある側溝があったのですね。その空間が苦手でした。灯りが今のように要所要所にありませんので、ものすごく怖かった。それが御客様の空間に出るとパッと全然違う空間に変化するわけです。

石原:外国の大使館も裏側は同じ様な印象でした。当時は裏動線のことをあまり考えていないといえばそうだったのかもしれません。

―従業員の方には使い難かったというのは、初めて聞く大変興味深いエピソードでした。ただ、御客様が目にする帝国ホテル・ライト館という建築は、やはり特別な存在だったのでしょうね。

石原:入社してまだ間もなかったのですが、来られている御客様が違うんだな、自分達の普段の生活とは違う人達が利用されている空間なのだなということは強く感じました。それが当時のホテルというものでしたが、特に帝国ホテルは外国の方の利用頻度が高かったので、デザインも含めて全てが「別世界」というイメージでした。

小池:私は小学校5年生の時、マリリン・モンローが来日したとテレビで紹介された時にパッと画面に写った帝国ホテルを見て「あ、こんな所で働きたいな」と思ったんです。建物も印象的でしたが、実はこういう所で働けたら色々な有名人に会えるだろうというミーハーなところから入ってまいりました(笑)。

PROFILE

小池幸子(こいけ ゆきこ)様

1942年生まれ。ライト館取壊しの6年前、1961年に帝国ホテル入社。東館で1年間勤務後、取壊しまでライト館で勤務。1989年には育児をしながらの女性管理職第一号として本館第一支配人を勤めた。現在、帝国ホテル東京 宿泊部客室課マネジャー。

石原峻(いしはら たかし)様

1947年生まれ。ライト館取壊しの2年前、東京五輪の翌年(1956年)に帝国ホテル入社。清掃を担うハウス課で1年勤務後、ライト館1階のガーデンバーに半年配属。その後19歳で駐英日本国大使公邸にバトラーアシスタントとして出向。スイス、ドイツ出向を経て、その後ホテル初のソムリエとして帰国。レストランや会員制バーの立上げ等を担う。デューティーマネジャーを経て、現在、帝国ホテル東京 ホテル事業統括部付サービスアドバイザー。

取材協力 – 帝国ホテル
取材・文 – 凸版印刷:樋澤・岸上・柿田

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