STORY

「著名人の方々をよく御世話」
ライト館で勤務したお二人とVRを巡る #02

INTERVIEW2018.10.02

―VRでロビーの奥に進み、明治村にも残っていないダイニングルームへ入りましょう

ダイニングルームのVR再現

石原:おぉ、でもVRで見るより、実際はもっと大きかった印象があります。奥のカーテンが閉まっているからかもしれません。カーテンがある所は、夜になると舞台の上で楽団が演奏をしていました。基本的にはジャズですね。昔はここでダンスなどを踊っていたんだろうなと感じる空間でした。床は木でできていたと記憶しています。そうしないとダンスできませんから。テーブルが横に6卓並んでいるということは結構大きな空間ですよね。今のダイニングテーブルより並べる間隔は狭いと思いますが。

―古い写真を拝見すると、ダイニングルームには桜の木が持ち込まれたり、橋がかかったりとイベント用に様々な空間演出がされていたのですね?

小池:今と同じですね。帝国ホテルらしいです(笑)。今もお正月の時など、様々な縁日を出したりしますから。

石原:カフェテラスにも楽団が入っていて、太鼓橋もあって、左手のバーカウンターではオペラ歌手の藤原義江さんが牡蠣を食べながらギネスを飲んでおられたのを覚えています。

小池:晩年まで帝国ホテルに住まれていました。そういう著名人の方々をよく御世話させていただきました。

―牡蠣を食べながらギネス…格好いいですね。装飾が印象的なダイニングの柱の裏側と廊下の間にスペースがありますが、ここはどんな空間だったのですか?

石原:ここは恐らく、一旦物を置くなどのサービスステーションとして使っていたスペースではないでしょうか。調理場から直接テーブルまでサービスするのは大変なので、こうした柱の裏側などに食器棚を置いてグラスを補充したりしていたと思います。

―なるほど!実際のサービスに関わっていた方の目線で御説明いただくと、空間の用途が非常によくわかります。ちなみにこの柱の目地が金で飾られていたという記憶はございますか?

小池:はい!たしかに。覚えています。客室の廊下には無いのに、どうしてこの柱の目地は金色なんだろうと思った記憶があります。先輩たちとよく勤務外の時間などに館内を散策していたんです。その時に先輩とそうした会話をしたのを覚えています。

石原:全ての柱の目地が金色だったわけではなかったと思います。

―INAXライブミュージアムに残っている当時の柱を見ると緑青が見られるので、真鍮を使っていたのかなと想像しているのですが…。

小池:真鍮はふんだんに使われていました。御客様の部屋にも真鍮が多く使われていたので、真鍮磨きがとても大変でした。一旦、御客様の部屋の用事が終わると、空いている時間は真鍮磨き。館内のあらゆる場所に真鍮がありました。階段に白いシートが敷いてあって、それを留める棒も金色の真鍮。今でもありますが、金属磨きで磨いていました。

石原:入社して一年間はパブリックスペースで窓拭きと真鍮磨きをやっていました。

小池:時間があれば真鍮磨き!でしたね(笑)。

―石原さんが働かれていたガーデンバーは、ダイニングの隣にあったのですか?

石原:はい、位置としては一階ダイニングの南側。正面ロビーからダイニングの手前で右に入った場所にガーデンバーがありました。ガーデンバーというのは今でいうコーヒーハウス的な場所で、ダイニングと同様の調理場から、パンケーキなどを出していました。

―写真がガーデンバーの様子でしょうか?

ガーデンバー入口とテラス

石原:場所はそうですね。ただこれは結構古い写真(右)だと思います。私が入社した頃は、このテラスは使っていませんでした。写真に写っているような池もなかったように思います。ライト館は左右対称でしたが、庭の印象はそれぞれ違いました。これは南側の賑やかな方の庭です。ここに面した窓ガラスをよく掃除した記憶があります。

小池:庭は芝生になっていましたね。季節になると、花が見事に咲いていました。写真のようにレストランやガーデンバーの従業員は着物を着て働いていました。私は、昼はウェイトレスの制服、夜は着物に着替えていました。着物の色は紫と緑の二色あって、ライト館に合わせたモチーフがデザインされていたんです。シルク製の非常に貴重な着物でした。

―小池さんは、ライト館のどの辺りで主にお仕事をされていたのですか?

小池:ステーションと私達は呼んでいましたが、南側の客室と回廊が接続している空間を客室にいる御客様へのサービス拠点にしていました。1階から3階まで吹き抜けになっていて、何かが無かったり手助けが必要な時は、吹き抜けから他の階の従業員に声をかけたりしていました。ちなみにステーションの脇に階段があったのですが、それは御客様用だったので使うことができませんでした。従業員は、その先にあった一人で通るのがやっとの細い階段を使いました。

石原:バックサイドは全て狭かったですね。働きにくかったのは確かです(笑)。

小池:帝国ホテルには、ホテルで初めて備え付けられたエレベータがありましたが、全て御客様用だったので、従業員は使用してはいけないと言われていました。ルームサービスでお食事のオーダーを受けますと、今のような便利なキャスターはありませんので、地下の厨房からトレイをわっぱで三段重ねにして担いで御客様のお部屋まで運びました。テーブルも、ガシャッと開く組立て式のものを使っていました。

写真を見ながら当時の様子を語ってくださった石原さん(左)と小池さん(右)

―地下から3階まで階段で食事を運ぶのは大変ですね!

小池:御客様は外国の方が多かったです。ルームサービス、ランドリー、清掃、全ての身の回りの事は客室担当の私共が担当していました。大変でしたが、当時は御客様との距離がすごく近く、とても親しくしていただきました。

石原:今はそこまで入り込みませんが、昔は単純にお部屋を提供するだけではなく、御客様の手紙をお届けするとか…。

小池:手紙も届けましたし、会計も御手伝いしました。お食事を運ぶと、今日は一人だから君も一緒に食べなさいとも言われたこともございます。遠慮しても「いや食べなさい、ここで嫌だったら自分のステーションに持ち帰って召し上がりなさい」と御馳走いただきました。

小池:ガガーリンさんにお食事を運んで、握手していただいたり、バッジを頂戴したこともございます。なのに、そのバッジはどこかに無くしてしまいました…(笑)。

―御客様は比較的長期間滞在されていたのですか?

小池:今のように御客様が一泊で帰ることはありませんでした。最低一週間、外国の方は一年二年といらっしゃいました。私がよく御世話させていただいたスイスからいらした御客様は、クリスマスだけ帰国し、あとは日本でお仕事をされていました。国に帰ればお土産を買ってきてくださり、海外へ行けばお土産を買ってきてくださいました。

石原:今も1週間や10日間という方はいらっしゃいますが、旅行で長期滞在の方は少ないです。

PROFILE

小池幸子(こいけ ゆきこ)様

1942年生まれ。ライト館取壊しの6年前、1961年に帝国ホテル入社。東館で1年間勤務後、取壊しまでライト館で勤務。1989年には育児をしながらの女性管理職第一号として本館第一支配人を勤めた。現在、帝国ホテル東京 宿泊部客室課マネジャー。

石原峻(いしはら たかし)様

1947年生まれ。ライト館取壊しの2年前、東京五輪の翌年(1956年)に帝国ホテル入社。清掃を担うハウス課で1年勤務後、ライト館1階のガーデンバーに半年配属。その後19歳で駐英日本国大使公邸にバトラーアシスタントとして出向。スイス、ドイツ出向を経て、その後ホテル初のソムリエとして帰国。レストランや会員制バーの立上げ等を担う。デューティーマネジャーを経て、現在、帝国ホテル東京 ホテル事業統括部付サービスアドバイザー。

取材協力 – 帝国ホテル
取材・文 – 凸版印刷:樋澤・岸上・柿田

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